石州流茶道とは


一五世紀後半になると、茶道は大転換期を迎え、村田珠光により精神性を重視した「わび茶」が誕生した。安土・桃山時代を迎えると、この「わび茶」は珠光を崇敬してやまなかった千利休によって大成された。利休没後、二代将軍徳川秀忠の茶道師範を務めた古田織部を開祖とする織部流を経て、遠州流さらに石州流が成立し、日本を代表する大名茶としてそれぞれ発展を遂げた。

 石州流は、大和国小泉の城主の石州により、始められた流儀である。石州は、四代将軍徳川家綱の茶道師範を命ぜられ、将軍家の茶道の規格を定めた。これが世に有名な「石州流三百箇條」と称されているが、以後石州流はこれを基本にして、将軍家は勿論の事、仙台藩を初め諸大名の茶道(大名茶)として、天下を風靡したと言われている。

 一方、これに先だち仙台藩では藩祖伊達政宗により、一世清水道閑が京都から仙台藩の初代の茶道頭に招聘され、さらに二代藩主伊達忠宗の命により二世清水動閑一世は、石州の許で十三年間修業を積んだ後、茶道頭に任ぜられた。二世動閑は「清水動閑註解石州流三百箇條」及び「動閑茶湯書」を著わし、仙台藩の茶道を石州流にするための基盤を築いた。二世動閑の跡の茶道頭には、四代藩主伊達綱村の命により、一門のなかで最も傑出していた馬場道斎(後の三世清水道竿)が、任命された。三世道竿は、茶道の造詣の深かった綱村の茶道指南役と言う重責を果たしつつ、前に述べた二世動閑の二つの著書の理念を土台にして、さらに創意工夫を凝らして芸術性を高めた石州流清水派(当流)を藩内に確立させるとともに、それを全国各藩に広めた(石州流清水派の系譜参照)。これらの功績が、茶道の歴史に「石州流清水派の祖」としての道竿の名が、深く刻まれた所以である。これ以降、当流は仙台藩の正式な流儀として、藩の手厚い庇護の基に発展を遂げ、明治維新後もそれを正しく継承した歴代の宗家に連綿として受け継がれてきた。

当流の宗家十一世大泉道鑑が現在所持している「清水動閑註解石州流三百箇條」及び「道鑑茶湯書」、二世道鑑筆「渋紙庵之記」並びに老中松平周防守康福筆「片桐石見守宗閑居士像」の三つの文献(資料)は藩政時代から当流の歴代茶道頭及び明治以降は宗家を継承する際に、代を譲られた印として、その都度後継者に引き渡されてきたものである。